昭和52年06月06日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 金光様の御信心を頂いて、ほんとに神様のおかげと言わずにはおれない、それこそ無い命を助けて頂いた、開けん道が開けたと言う様な、体験を持った人は沢山ある、あるだろうと思います。ほんとに神様の働きそれをそのまま神様の、いわゆる神様を私しが今日ある大恩人としてそれをまあ感ずる。だからそういう人達はどれほど、どれだけ沢山あったか分からないのです。
 神様のおかげを頂いたと。神様のご恩はもう一生忘れません、死んでも忘れませんと言ったような人達は沢山あったと思うのですけれども、ね、子孫も続き身代も出来、1年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るぞと、教えておられる様なおかげを頂いておる者はもうごくごく稀ですよ、ね。神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き、だから神の大恩を、知ると言うても神様のおかげだと分かっても、ね、その分かり具合だと、教祖様が嘘のお知らせ、教えをしておられると思いません。
 神様のおかげと言う者はどれだけ沢山おったやら、又おるやら実は分かりませんけれども、なら果たして日勝り月勝り年勝りじゃなくて、もう代勝りにおかげを頂いておる。言うならそういうお徳を受けた人というのは、もうごく稀であると言う事実をね、あたくしどもがまず分からして頂いて、ほんとにそう言う代まさりのおかげの頂けれるような恩を感ずると言う、恩が分かると言う事はどう言う様な事かと言う事に、一つ焦点を置いてそこを深く広く分らしてもろうて。
 ほんとに子孫も続き身代もでけ、1年勝りしかも代勝りにおかげの頂けれるような信心です。おかげの頂けれるような大恩の言わば感じ方と言うものはね、どういうおかげを頂いたらそういうおかげに繋がるかと。皆さん味おうて毎日こうして御理解頂かれる方は、あたくしがここまで話したら「はあ、神の大恩を知ると言う事は、ほんとに神の大恩を知ると言う事はこう言う事だな」と、皆が分かっておられると思うです。私しが言わんでも、ね。おかげを頂いた。
 ほんとに命を頂いたと言う様な事なんかは、もうほんとに大恩ですよね、神の大恩です。けれどもそういう人はどれくらいあるやら分からんのだけれども、なら、代勝りと言った様なおかげに、人間もでけ身代もでけ、ね、それこそ代勝りのおかげの頂けれるようなおかげを頂いておる人は、ね、もうごくごく稀だと言うのです。皆さんの周辺を見て見られたら分かるのです。だから通り一遍の神様の、ただ命を頂いたその大恩と言った様な事だけではないそうですね。
 ないですでなかったら、金光教の信者の中にはもう沢山代勝りの、いわゆる神の機感に叶た氏子が今頃おらなきゃならない。そしてそういう氏子がそれこそ真善美に輝くようなおかげを打ち立てていったら、その周辺が光に潤うて来なければならないのだけれども反対だと、ね。だからほんとに神の大恩を知ると言う事は、しかもそういう徳に繋がるような大恩を知ると言う事はどう言う事か。
 今日はそこに焦点を置いて、ここを広く深く言うなら分からせて頂こうと、例えば私しがこう申しますと、皆さんがすぐお分かりになるだろうと思います。ね、分かられたでしょうが、どう言う事が分かる事かと言う事を。所がね分かる事が分かっておるだけではまたおかげにならんからですよ、ね。結論を先に申しますとです、ほんとに自分の都合の良いように、それこそ夢にも思わない様なおかげ、お繰り合わせを頂く、神様の大恩が分かる、ご恩が分かるけれども。
 その恩とかその大恩は忘れませんと言うておるのでは、子孫繁盛には繋がらない。代まさりのおかげには繋がらない。ね、人間も出来身代も出来、と言う様なおかげには繋がらない。1年勝り代勝りのおかげに繋がらない、ね。だから自分の思う様になると言う事ではなくて、ね、おかげを頂いてのご恩を忘れませんと言うご恩ではなくて、ね、一見おかげでないかに見える神様の働き、ね。
 昨日の御理解を引用しますと、今、合楽の教会の家庭、これはもう椛目の妹の家まで含めてですけれども、もう全部が合楽で、病気をしとらんと言うのは家内と光昭ぐらいなことじゃないでしょうか。椛目なんかはもう全滅。子供達2人が助かっておるだけで、もう次から次と、しかも同じような病。まあ伝染するとか何かでから一家でやられたんじゃなくて、それぞれに違う病気でそれぞれに自分が元気にしとらなければと、世話する者がおらんけんと言う事で頑張っとる。
 それが次々と倒れていくんです。三人共ながら倒れていく、ね。ここの信徒会長の関係でもそうです、ね、信徒会長の家にはあたしは昨日改めてまた聞かせて頂いたんですけれども、あの秋永先生が乗っておる大きな車が、徹さんがちょっとタバコ買いに寄って、ちょっとフッフッとえらい大きな音がしたけんで、ちょっと振り向いた時にはもうその自動車が、そこにはもうなかったちゅうじゃけん。
 100キロも出した飲酒運転の、要するに激突しとるからもう車どこさも吹き飛ばされてしまった。そしてもうめちゃめちゃになっとる。ほんとにもうちょっと、あのあそれに乗っとったら、人間までめちゃくちゃになっておっただろうと。勿論それに突っ込んできた人も、あのガラスに頭を突っ込んどったほどしの事じゃったけれどおかげで軽かったと言う事ですね。
 言うならおたくの文男先生が所には、それこそ出刃包丁突きつけられて強盗が入ったと言った様な事。たった先生方が京都に2、3日行っておる間の出来事、ね。昨日お礼やらお届けに出て参りましたけれども、言うなら嘉朗さんの所でも、明光くんがそれこそ自転車の事故でしたけれども、こう顔を歯が欠けるようにやっぱひどい。けれども昨日お母さんが来てからもうそれは喜ぶんですよ。
 「もう僕はねあのもう落ち込んで、そのけがした時まあその信者さんのお母さん達が皆集まってから、上にあげてくれたり色々してくれたんだそうですけれども、そのあげて貰った時にほんとに「金光様有り難う御座います」って繰り返して言いよった」っち。「ほんとに子供ながらでも信心を頂いておると言う事は有り難いことです」と言うて由喜子さんが今朝お届けをしておりました。ね、
 3人の兄弟が3人もろともにです、そう言う事故にもうおかげを頂くと言う事も、不思議で不思議でたまらん様な、不思議なおかげを頂いて恩が分かるのですけれども、そう言う事が起こって来ると言う事はもっともっと不思議な事であり、もっともっと神愛の込められておる事なのですよ、ね。そしてよりほんとの事を分かってくれよというだけではなくて、私は是にはほんとに、はあ秋永一家がこれだけの言うなら修行をしたから、もう暫くはもう参ってこんでんおかげ頂くなと思いましたね。
 それで満たされたんです。足りない信心足りない修行。だからおかげはねこうやって支えて下さる事の為にそういう修行を神様は求めなさったんですから、だからそれで修行がもう一杯なんです。だからもうもう暫くは全然参って来んでんおかげ頂くでしょうね。修行それにおかげは付き物と仰るのじゃから。だからこれにもういっちょです、言うならそういう怪我をするとかびっくりするような、たまがる様な修行ではなくて、ね、神様に喜んで頂くような修行に言うなら切替えられたら。
 そこから私しはお徳が受けられる信心とはそう言う事だと思う。夕べも家内と嫁と2人でここにお届けに出て参りましてどうもあの具合が悪い。それはお産の後のいろんな、まあ後遺症と言うのですか、そう言う様な原因があれだ是だと言った様なようなお届けをしますから、「成程そういう原因かもしれんけど、良子さんそげなこっちゃなかばい。」っち。言うならほんなら合楽のもんが皆んなどうかあると言うなら、何か特殊な原因がそこにあるかも知れんけれども、是はこれ程しのおかげを頂いておる。
 今合楽はごひれいと言うものが、ね、それこそ南米の地にまでも広がろうとしておる。それこそ、ね、ラジオのお供えからテレビのお徳。そしてそのテレビを自分の家へでも移して見れて月次祭が、ね、病気で寝ておって動けない人達が月次祭たんびんの、お月次祭も拝まれ、お説教も頂けれると言う程しの、是はおかげでないともうそれは徳なんだ、ね。そういうおかげを頂いておるのに、これは信心が不足しておる所に、池尻、大坪の家が全滅と思うくらいに、それぞれが言うなら病気をしておる。
 だから親先生がいつも言われるんです、ね。「合楽で真善美のおかげを頂いちゃる。だからもう貧争病の無い世界はもうとっくに頂いてある。それなのに病気をしてござる。これは病気じゃなかばい、神様のね、言うならばなんなんと言う病気の名の修行だよ」と、私しは申しました、ね。なら私しは糖尿病と言う名の神様のご都合であり、どういうご都合かと言うと、それは修行だよと言う事なんです、ね。だからなら是だけ合楽全体の者が修行させて頂いたから、信心が進まなくってももう今。
 今のままいやもっと信心が地に落ちても言うなら、まあそう秋永先生とこもそうですけども、欠けておる所落とさしちゃならんという働きが、兄弟3人の上に様々な事故として現れた。そこで神様がその修行で埋めて下さったんだから、もう一事ばっかりは又楽ぁくにおかげが頂けると言う程しの事ですから、お礼を申し上げねばおられぬ。それにもういっちょ言うなら神様の言わば思いを先取りするような思い方で、ね。
 そう言うビックリするようなとか、痛い苦しいと言った様な修行ではなくて、ほんとに生き生きとして喜びに満ちた信心修行をさしてもろうたら、もう痛い思いをする事はいらん、苦しい思いをする事はいらん。ね、その向こうにあるのはお徳を頂く、ね。皆さんそげなこと分かってませんでしょうが。「はあぁおかげを頂いて有難い。」と、そこに恩を感ずると言う恩では、いかに私し共が、ね。
 恩が分かる大恩が分かった、もう一生忘れませんと恩を感じておっても、それは言うならば徳の世界へのいさないにはならないと言う事。日勝り月勝り代勝りのおかげにはならないと言う事。年勝りに身代も出来ていくと言うおかげには繋がらない。その証拠には沢山のそういう、ね、不思議なまでのおかげを受けておると言う人はどれだけおるか分からんから、又は恩を感じたに違いないのだけれども、そういう恩の感じ方ではですね。人間が自分の都合の良いおかげを頂いてから。
 「はあやっぱ神様のおかげって有難い勿体無い」と、言うとるだけでは徳にはならないと言う事。むしろその反対の事、ね。おかげを頂いての有難いじゃなくて、おかげを頂かせて下さろうとする働きそのものに神愛が分かり、大恩を分からせて頂いた時に初めて、これは代勝りのおかげに繋がるようなおかげが受けられると言う事なんですから、ならここまでは合楽で御理解頂いておる方は、あ、先生が次にどう言う事を言おうとしておるかと言う事が分かるでしょうが。
 難儀そのものが親愛だと、ね、それがほんとに親愛だと分かってお礼が言えれるようになった時に初めて、神の大恩が分かったと言う事になるんだと言う事は、皆さんがもう拾、もう百も分かっておられると言う事、ね。所が又それが分かっておるけれども、まだ実感としてと言う事になると、ね、そこに信心修行がいるわけです。昨日壮年部会でしたから、皆さんのお話をまあ聞かせて頂きましたが、椛目の宮崎さんが発表しておられました。いよいよ10年祭も近付いてきておる。
 それになんともそのまあ「や」と言う気が起こらない。結局は神様の生き生きとした働きを受けなければ出来る事ではありませんようです。と言う発表をしておられます、ね。「さあ10年祭じゃけん、まあぼちぼち頑張らじゃごていけないな」と、言う位の事では、生き生きした御用にはならない。それこそ神様から後ろからどんどん押して下さる様な、言わば感じが起こって参ります時に、前に進まなければおられない。
 いわゆる神様の生き生きとした働きを受け続けなければ、ほんとの御用は出来ないと言う事を言うておられて、まさしくそうだと私しは思うです。10年祭だからどうかせなん10年祭だからああもせなんこうもせなんと。と計画が立てられる。さあんならばいつからそれに取り組むかと。いっこう気合いが入らない。神様がやあやあ言うて後ろから押しよんなさる所を感じきっていないからなんです。なぜ感じきってないか。
 これ程日参をしたり御理解を頂きよるのに、なぜそう言う事が起こらないのか、おかげは頂いておるけれども、実感として次の躍動の、躍動するまでの自分の体を動かさなければおられない様な働きになってこないかと。どう言う所にあるだろうか思いよる。けれども何かがそれを後ろから引きずるようものがあるわけ、邪魔する様なものがあるわけであります。ね、
 何が邪魔しよると思うですかね、まあ一言でいやあ我情我欲が邪魔しよる。おかげ頂いておる、こんなにもおかげを頂いているそしてまた、ほんとに記念祭には信者の為にあると言われておるくらいだから、ほんとにこの記念祭を本気で、そりゃあおかげを受けれる事は分かっとるし、ね、無条件でさしてもらおうと分かっておるけれども、何者かが後ろへ引っ張る様な働きがあると言う風になっておる、ね。
 私しはこの頃ずっと、歯で難渋しておりましたから、歯医者に行って沢山な金をかけてから、綺麗に見かけだけは出けた。ところが、もうどんこん痛うしてからもう絶えられん。それで3回ほどまあ削りに行けばすこうしは楽になった。で「今度はもういいでしょうこれだけしたから。ならまた悪かったらまた言うてきますから」と言うとるけれども、もう3回も行ったけんで気の毒うしてから行ききらん。
 私しはそういうほじきなかとこがある、昔から。もう嫌って言いきらんという性分ですkりゃから。これはあ、あたし12万円もかけとくじゃけんで、これはきっとどがしこでき、悪けりゃやり直して貰ったっちゃよかわけですよね大体。けれどもね先生が「もうこれでいいでしょう」と言う事を私し言われよっと「いいやいけなかった」っちゃ言いきらんのですよ。
 してもう痛かったっちゃ「はあもう大体良かごたるです」と、言うことだけしか言い切らん。もう自分ながら情けないごたるですけれども。ほれでもう最後に行ってからもう10日にも、10日以上にもなりましょうけれども、痛い痛いと言いながら行けきらんものを持っとる。でそれをまあ朝晩繁雄さんが見ておられるもんですから、「ほんなら今度家の息子ばやりましょう」ち。技工士を福岡でしております、ね。
 ほんで昨日はあのお休みだったそうですから、あの、あぁ言うだんの機械を持って来ましてから、来てくれました、ね。ですからそのう繁雄さんの息子ですから、もう我がよかごつ言われるわけです。ほんであのうほりゃもう歯医者よりかあんたの方がよい、上手ばいっちからと言うた事でしたけど、おかげで昨日からいっちょんあたらんごとなって、もうお肉でもなんでも食べられるごとなった、ね。そして思うんです。お互いが難儀とか苦しいとかと言うてそれこそ辛抱したことだけじゃないでしょうかね。
 もう人間じゃけん高価なそれは当たるまいと、そげなこと思っとったっちゃからおかげは頂かれんですよ。言うなら私しがこの歯ば、言うならいつまっでん辛抱したらいつっまでん苦しまんならなかったと同じ事。昨日はもう思い切って自分の思う存分に、言うならば削り、言うならば削り直してもろうた。もうこんなにも楽になるのに削ろうとしない。ね、こういう心があっちゃ信心じゃない。こういう心の使い方じゃおかげは受けられん事が分かっておってもです、それを削って取ろうとしない。
 辛抱強かけん皆さんは、ね。だから本当に難儀を感ずる時にはです、困ったとかが心配事がある時にはです、本気で自分の心を削ってご覧なさい。心一つで全てを創る信心ですね。思う存分自分のその心を削って、いわゆる改まってご覧なさい。もう改まって自分の是がおかげを受けられんと言うガンの様なものを、削り取った時の後の楽な事、有難い事又これは格別です、ね。そういう私は信心が、ね分かっておる。ならば今日の御理解なんか皆さんが言う、十分いつも頂かれる事ですから分かっておる。
 今日はとりわけね、神の大恩を知ればね、無事達者で子孫も続き身代もでけ、いわゆる貧争病のない世界と言う事ですね。1年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞとね。と教えておられるのにも関わらず、大恩を知ったという人はどの位沢山あるか分からん、お道の信奉者である限り、ほんとに神の大恩を知らん者は1人もおるまい。けれどもそれは自分の都合の良いようになった、無い命を助けてもろうた、開けん道が開けたと言うとるだけの大恩である。
 だからそれでは言うなら代勝りのおかげをうける様な事にはならないと言う事を、焦点に聞いて頂きたい、ね。そんならばどう言う所に神の大恩を感じるかと言うと、自分の思う様にならない事、どうしてこんなに一家中が病気をせんならんだろうか、どうして自分方一門だけがそげな事故に遭わなければならんだろうかと言う様な時に、愈々神愛を悟らしてもろうて、ね、そこから一段の信心を進めて行く時にです、初めて神様の言うならば大恩、神愛が分かって来る、ね。
 痛いけれども神様の心を思うたら、有難い勿体無いと言う心が起こってくるね、だから話やら合点の上では、言うなら皆さんが十分この事は知っておられる事だけれども、さあ10年祭がもう目の前に迫っておるのにいっこう、分かっておるのにそれが昨日、宮崎さんが言われた事ではないけれどもです、どうもね心と体が一致しない。どうでも神様の生き生きした働きを身近に頂いて、神様が後ろから後押しをして下さる様なものを感じる程しのおかげを頂かなければ、御用は出来ませんとこう言う事ですね。
 そこで言うならここまで分かっておって、どうしてその実感がです、分かっておるけども前進、前へその進まれない、後ろに反対に引き摺ってる、後ろから引っ張られるようなもの、そういう障害は何かと言うと、私し共の我情であり我欲である、ね。それを言うと、私し共の心の中に巣くっておる所の、改まらなければならない所を改めない。削れば楽になる事は分かっておるのに削ろうとしないから、生き生きとした働きを直に受けて感ずる事、受けて感じてそれを行の上に現す事が出来ないのです。
 あたしはほんとに思うです、壮年部会の時には、もう昨日壮年部会は5名、それにあたくしと西岡先生7人でした。壮年部会長があのう腰を痛めて出来んからと言うて昨日息子が参って来た。それから秋永先生はおそらく夕べやっておられる、でしょうからだからほんとにたった10名余り位なんですけれども、いつの場合でも壮年部会は素晴らしいな、しかもあたしがいつも入っていつも入るから、あの余計有り難いと言うわけではないけれども、とにかく素晴らしい壮年会がいつも出来るんです。
 おかげ頂きたいと言う壮年の人が沢山おるにも関わらず、あたしはもうこれだけであんたらおかげ頂かんばいと、あたくしは言おうごたる感じがするです、ね。あたくしども総代会で出よるけんで、あたしだん菊栄会でも出よるころ、そんなのとは別でしょうが、ね。ね、そしてほんとの研修も出来ないような会で出たっちゃ、何おかげ頂ける筈がない、ね。それこそ末永先生じゃないけれども、ね、精一杯のこうしたらおかげを受けられると言うたら、でけんなりでもこうと貫いて来たから。
 今日の言わばごひれいの言うならばこの、おかげを頂くはずだと言う様な、ものを身に付けておったからおかげを頂いとるです。その精進もでけずしてです、ほんとのおかげを頂こうなんて、それこそそやちっと虫が良すぎる、ね。もう壮年会は何十年続いておるけども、いつも言うならまあ10名ぐらいな事、いつも変わらんね。もう善導寺の原さんに、久富勇さんなんかはもう常連です絶対。所が原さんは亡くなりなさったけんコロッと1人減ってしまった。
 勇さんがああして体が悪くなったけんコロッと2人減った。現在夕べは本当うに5人でした、ね。それでもその中にその込められておる生き生きとした神様の働きを感じずにはおれん様な会合があっておるのに、おかげが頂きたい願いを持ちながらどうして来んのだろうかと私しは思う。あたしだん毎日参りよるけんで言うのかもしれないけれどもね。ま今日はね皆さんが十分、ね、あたしが言わんでも知っておられる事を今日は聞いて頂いた。合楽の人達の素晴らしい事はね。
 おかげを頂く事も有り難いけれども、それと反対の事はもっと有り難いんだと、愈々神愛のそれは現れなんだと言う位の事はもう皆知っておんなさる。けれどもそれに対して言うならお礼が言える程しのものがあるかと言うと、お礼が言えない。お礼言わなきゃ分からん、御用頂かにゃおられん事が分かっておんながら、出来んのはあなた方の心の中に言うならば、あたくしの歯の治療と同じ事です。ね、削るとこを削ったらこんなにも楽になるものを削ろうとしないから、いつまでも楽にならんと言う事を今日は聞いて頂きましたね。
どうぞ。